啓明館 - 神奈川県・横浜市の中学受験専科塾

啓明館事業部長 渋田先生日記

2021年11月10日

カンボジア訪問記

生徒たちには「中学受験ができるということは、当たり前のことではない。塾に通えるということも、当たり前のことではない」という話をします。今回から、全3回で、2006年の8月9日~14日まで、カンボジアに行ったときのことをまとめます。内容は、地雷撤去のボランティアをしている方のインタビューをまとめたものです。(カンボジアの最大の課題は、ポルポト時代にほぼ全員が殺されてしまった知識階層と教育設備の劣悪さにあります)

 

 

『わたしの家族は、わたしが赤ん坊の時に離れ離れにされました。父と母は5キロ離れた村にそれぞれ住んでいました。わたしは10人くらいの子供たちと1人か2人の大人のいる家で育ちました。クメール・ルージュ(ポルポトの指揮する解放軍)は、機械の使用を禁止していたので、わたしたちは長時間、家畜同然に働かされました。与えられた食料はとても少なく、ほとんど重湯(水を多くして米を煮た汁)だけだったので、わたしたちはすぐに栄養失調になってしまいました。

父は、教師をしていましたが、新しい仕事として道路を作る仕事をさせられました。彼は栄養不足と過労のためにすぐ病気になり、入院して薬をもらうことになりました。しかし信じられないことに、薬はウサギの糞で作られていて、点滴されたものは泥水だったのです。当然、父は10日経っても病気のままで、餓死寸前でした。ある日、彼は大きな器にはいった栄養たっぷりのスープをもらったので、それをすぐに飲んでしまいました。それを見たクメールルージュは父がスープをもらいたくて仮病を使ったと責め、罰として彼を連行して、殺してしまいました。それ以来、わたしは具合が悪くても、何をされるのか予想がついていたので、怖くて誰にも言えませんでした。

母は、年老いた男性がつまずいて食べ物をこぼしそうだったので注意してあげたところ、「罪」を犯したとして捕まりました。クメール・ルージュは、一瞬のすきも見せず、まるで頭の後ろにも目がついているようでした。彼らは母を捕らえ、学校へ連行するといいました。学校と教育は、新政権に厳しく禁止されていて、「学校に行く」ということは2度と戻ってこられないことを意味していたので、わたしは学校をとても恐れていました』

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